1900-08-30

幸徳秋水が「自由党を祭る文」を『万朝報』で発表。

人物

幸徳秋水(Shusui Kotoku/1871- 1911)が、1900年08月30日(明治33年08月30日)に、旧自由党系政党の憲政党がかつての政敵である藩閥の伊藤博文と結び立憲政友会を結成したことを受け、万朝報に「嗚呼自由党死すや」と書き記した「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表した。

自由党を祭る文

 歳は庚子に在り八月某夜、金風淅瀝として露白く天高きの時、一星忽焉として墜ちて声あり、嗚呼自由党死す矣、而して其光栄ある歴史は全く抹殺されぬ。
 嗚呼汝自由党の事、吾人之を言うに忍びんや、想うに二十余年前、専制抑圧の惨毒滔々四海に横流し、維新中興の宏謨は正に大頓挫を来すの時に方って、祖宗在天の霊は赫として汝自由党を大地に下して、其呱々の声を揚げ其円々の光を放たしめたりき、而して汝の父母は実に我乾坤に磅はくせる自由平等の正気なりき、実に世界を振蘯せる文明進歩の大潮流なりき。
 是を以て汝自由党が自由平等の為めに戦い、文明進歩の為め闘うや、義を見て進み正を蹈で懼れず、千挫屈せず百折撓まず、凛乎たる意気精神、真に秋霜烈日の慨ありき、而して今安くに在る哉。
 汝自由党の起るや、政府の圧抑は益々甚しく迫害は愈よ急也、言論は箝制(かんせい)せられたり、集会は禁止せられたり、請願は防止せられたり、而して捕縛、而して放逐、而して牢獄、而して絞頸台、而も汝の鼎钁(ていかく)を見る飴の如し、幾万の財産を蘯尽して悔いざる也、幾百の生命を損傷して悔いざる也、豈是れ汝が一片の理想信仰の牢として千古渝(か)う可らざる者ありしが為にあらずや、而して今安くに在る哉。
 汝自由党は如此にして堂々たる丈夫となれり、幾多志士仁人の五臓を絞れる熱涙と鮮血とは、実に汝自由党の糧食なりき、殿堂なりき、歴史なりき、嗚呼彼れ田母野や、村松や、馬場や、赤井や、其熱涙鮮血を濺げる志士仁人は、汝自由党の前途光栄洋々たるを想望して、従容笑を含んで其死に就けり、当時誰か思わん彼等死して即ち自由党の死せんとは、彼等の熱涙鮮血が他日其仇敵たる専制主義者の唯一の装飾に供せられんとは、嗚呼彼熱涙鮮血や丹沈碧化今安くに在る哉。
 汝自由党や、初めや聖賢の骨、英雄の胆、目は日月の如く、舌は霹靂の如く、攻めて取らざるなく、戦いて克(かた)ざるなく、以て一たび立憲代議の新天地を開拓し、乾坤を斡旋するの偉業を建てたり、而も汝は守成の才に非ざりき、其傾覆は建武の中興より脆くして、直ちに野蛮専制の強敵の為めに征服せられたり、而して汝が光栄ある歴史、名誉なる事業今安くに在る哉。
 更に想う、吾人年少にして林有造君の家に寓す、一夜寒風凛冽の夕薩長政府は突如として林君等と吾人を捕えて東京三里以外に放逐せることを、当時諸君が髪指の状突然目に在り忘れざる所也、而して見よ今や諸君は退去令発布の総理伊藤侯、退去令発布の内相山県侯の忠実なる政友として、汝自由党の死を視る路人の如く、而して吾人独り一枝の筆、三寸の舌のみあって、尚お自由平等文明進歩の為めに奮闘しつつあることを、汝自由党の死を吊し霊を祭るに方って、吾人豈に追昔撫今の情なきを得んや、陸游曾て剣閣の諸峯を望んで、慨然として賦して曰く、「陰平窮冦非難禦、如此江山坐付人」嗚呼専制主義者の窮冦禦ぎ難からんや、而も光栄ある汝の歴史は今や全く抹殺せられぬ、吾人唯だ此句を吟じて以て汝を吊するあるのみ、汝自由党若し霊あらば髣髴として来り饗けよ。  (万朝報 一九〇〇年八月)


1901年06月より起こった義和団の乱の制圧で、日本軍が清国の馬蹄銀を横領した嫌疑を『萬朝報』で追求し、陸軍中将真鍋斌を休職に追い込んだことで、山県有朋などの恨みを買い、のちの大逆事件につながったとする説がある。

幸徳秋水は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者で、本名は幸徳傳次郎(Dabjiro Kotoku)である。

秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもので、高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれた。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道の陰陽師の家であった。

1887年(明治20年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となった。

新聞記者をめざし、『自由新聞』などに勤めた。

1898年(明治31年)より黒岩涙香(Ruiko Kuroiwa/1862 - 1920)が、「朝報社」から創刊した日本に於けるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルを追求した『萬朝報』記者となる。
記者のかたわら国民英学会などで学び、1900年08月30日に「自由党を祭る文」を発表し、1901年(明治34年)に、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行して帝国主義を批判した。
1903年(明治36年)に、『万朝報』も社論を非戦論から開戦論へと転換させたため退社した。
1904年(明治37年)に、「与露国社会党書」発表し、堺と「共産党宣言」を翻訳して発表したが、即日発禁となる。
1905年(明治38年)に、新聞紙条例で入獄、獄中でクロポトキンを知り、無政府主義に傾く。
出獄後、渡米し、1906年(明治39年)に、日本社会党が結成され帰国し、ゼネラル・ストライキによる「直接行動論」を党内で提唱した。1909年(明治42年)に、『自由思想』発刊したが、これも即日発禁になった。

1910年06月(明治43年06月)に、「大逆事件(幸徳事件)」で逮捕され、翌年に死刑判決を受け、他の死刑囚とともに1911年01月24日に、東京市市ヶ谷刑務所で処刑された。
これには当時すでに国内や海外の一部から批判があり、社会主義者たちを一網打尽にしたかった当局が仕組んだ謀略である、というのがほぼ定説になっている。墓は、高知県四万十市の正福寺にある。戦前は墓碑に鉄格子がはまっていて、刑死後もなお、当局に監視されていた。

幸徳は事件当時、皇族暗殺計画の首謀者である管野須賀子と同棲中だった。
彼女も大逆事件で処刑された12名のうちの1人で、幸徳ら11名が刑死した翌日に刑死した。

1911-01-18---明治天皇暗殺計画の「大逆事件」で、死刑判決が出された。

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