1582-08-06

羽柴秀吉は、初めて太閤検地を行った。

経済

織田信長の命じた検地(信長検地)の時に、木下藤吉郎として、奉行人を経験していた羽柴秀吉は1582年08月06日(天正10年07月08日)に、近江で初めて太閤検地を行った。

朝日新聞は2015年07月11日に、木下藤吉郎時代、領地の収穫高を厳密に調べるよう家臣に命じた書状が、京都市の民家で見つかったと報告してる。

羽柴秀吉は天正19年(1591年)に太閤を名乗ったが、それ以前からの検地も含め、秀吉が関わった検地を総称として「太閤検地」と呼ばれている。

なぜなら、羽柴秀吉は、その集大成として関白を辞して太閤となった。

検地によって得られた膨大な検地帳を元に、国ごとに秀吉が朱印状で認めた石高を絵図を添えて提出するよう指令を出して、将軍に上納されている叡覧として備用される「御前帳」に沿って、徴収させた。

これを「天正御前帳」という。

朝日新聞は2006年11月06日に、豊臣秀吉に仕えた長束正家、増田長盛、石田三成、前田玄以の4奉行が、花押とともに、因幡国(鳥取県東部)の鳥取城主だった宮部継潤に対し、石高を記した御前帳などを報告するよう連名で求めた書状が、滋賀県愛荘町で見つかったと報告した。1591年(天正19年)年の日付で、1592年からの朝鮮出兵を前に、財政的な基盤を調べるため地方の城主にあてて出したとみられる。4奉行が連署した書状の原本が見つかったのは初めてと伝えている。

4奉行が連署した書状は、薩摩国の島津義弘あての書状が知られるが、記録として伝わっているだけで、原本は見つかっていない。

太閤検地の成果は、権利関係の整理や単位統一が図られた革新的な意味をもつだけでなく、農民への年貢の賦課、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格など、その後の制度、経済、文化の基礎となる正確な情報が中央に集権されて把握でっきたことであり、その意義は非常に大きい。

それまでは、戦国時代の日本で、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」という団体として領主に年貢を納める地下請がほとんどであった。

これでは、戦いで領主が変わるたびに、複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、そこからさらに領主に年貢が納めるといった複雑な権利関係が存在した。

複雑な権利関係が起こらなくすることは、羽柴秀吉が、天下を統一したということを明確にし、命令系統の明確化にもなり、こういった権利関係を整理し、ひとつの土地にひとりの耕作者(納税者)を定めようとした。

また、戦国時代までは農村側が自己申告する形式の検地(指出検地)が多かった。しかし、太閤検地では多くの田畑が実際に計測(丈量検知)された。

1589年(天正17)に美濃検地が行われ、それは同時に、単位の統一、測量技術の統一を実施しそれを基準にするようになった。

豊臣秀吉は、太閤検地による安定した収入から、朝鮮征伐を計画したと言われている。

1588-08-29---豊臣秀吉が、刀狩令を発布。

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