2015-09-12

なぜ、ドイツ人は難民を支援するか?

戦争と平和

私には、その理由として、いくつかの答えが用意されているが、AFPは2015年09月12日に、ドイツの年金生活者フランク・ディトリヒ(Frank Dittrich)さはこの4週間、午前8時から午後7時までベルリン(Berlin)の難民登録センターに並ぶ人たちに飲み水を渡していると報告した。

「家でテレビの前に座っているよりもずっと有意義な時間の使い方だよ」と、ディトリヒはAFPに語る。

「登録希望者が多すぎて政府には絶対に対応しきれない。だから手伝わないとね」と、ディトリヒはあっさりとした口調で語った。

今年予想されている難民申請者80万人の受け入れ準備が進められているドイツでは、ディトリヒのような大勢の市民が、第2次世界大戦(World War II)後、最大規模の難民支援に自発的に参加している。

難民の一時収容施設の隣に自宅兼スタジオを構えるアーティストのアンデレル・カマーマイアー(Anderl Kammermeier)は「毎週末、あるいは毎晩、難民のための物資を積んだ車が次々にやってくるのが見える」
「われわれの歴史、ドイツの記憶と関係していることなのだろう。ほぼ全てのドイツ人は、かつて難民あるいは移民だった家族を持っている」と語る。

とくにベルリンは、テンペルホフ(Tempelhof)飛行場に飛んでくる物資で、何人もが生き抜いた。

ノーベル文学賞作家ヘルタ・ミュラー(Herta Müller)は、「私も難民だった」と題した独大衆紙ビルト(Bild)の論説で、ナチス・ドイツ(Nazi)の統治下で数十万人規模のドイツ人が国を逃れたことや、その後に大勢のドイツ人が東欧や東ドイツの共産圏を逃れたことを振り返り、「ナチスを逃れて亡命した人々はみんな助かった。…過去に他の国々がドイツ人にしてくれたことを、ドイツもしなければならない」と述べた。

歴史家のアルヌルフ・バーリング(Arnulf Baring)は「われわれが今行っている善行はなんであれ、過去にわれわれが犯した悪行、とりわけナチス時代のそれとつながりがある」と述べる。

アルヌルフ・バーリングによると、反移民の論調が出るたびに、ソーシャル・メディアで激しい反論が巻き起こっているという。

日本も、この考えが必要である。

されにドイツは、第一次世界大戦と、第二次世界大戦の2回負けている。

しかし、戦後の爆発的なエネルギーも2回、実感している。

難民が、死に物狂いであることは、その反発は、想像を絶するエネルギーになることを知っている。

ドイツのDPA通信の委託でイギリスの世論調査会社ユーガブ(YouGov)が実施した調査によると、難民支援を手伝った人は、すでにドイツ人の5人に1人に上っている。
カマーマイアーによると、難民の一時収容施設に寄付した人の多くは、最近ドイツに移住した人や、家族が移民だった人だという。

難民の一時収容施設では、2人の難民を連れた若い男性が、2人の受け入れを許可してほしいと施設責任者を熱心に説得していた。

匿名を条件にAFPの取材に応じたこの若者は、ボランティアで難民たちの通訳をしていると述べ、「私はドイツで生まれたけれど、両親はイラン出身だ」と語った。
若者は「手伝わなければならないと感じたんだ」と述べ、毎日仕事帰りに一時収容施設を訪れ、「通訳でも車の運転でも必要なことはなんでもしている。」と語った。「ただ人間的であろうというだけさ」と言っている。

さらに、ドイツの季節労働者が産業を動かしている。

ドイツの工場は、ドイツ人以外が動かしている。

アメリカ人のように、白、黒、黄色などという意識はない。

さらにドイツは、1500年代に宗教改革をした国である。

難民が入れば、扉を閉めるのではなく、開け、パンを与えるという考えが浸透している。

テンペルホフ(Tempelhof)空港のGoogle Earthポインター情報
52°28'26.03"N,13°24'16.70"E
または、
52.473897, 13.404639

1945-04-30---ナチ党総裁ヒトラーが死去した。
1945-05-02---東からドイツに侵入したソ連軍が首都であったベルリン市内に入った
1945-05-07---ドイツが連合国への無条件降伏文書に調印した。
1948-04-01---ソビエト連邦は交通の自由運動に対する弾圧をベルリンで発表した。
1989-11-09---ベルリンの壁が崩壊した。
1989-11-09---ボルンホルマー通りで、ベルリンの壁が開いた。
1990-10-03---東西ドイツは再統合された。
1991-06-20---ベルリンがドイツの首都に復帰した。